D-Lab Japanブログへようこそ!
ボストン側プロジェクトメンバーの陸です。
現在、ハーバードケネディ行政大学院の国際開発専攻修士コース(MPA/ID Program)に在籍しています。留学前はビジネスコンサルティングの会社に働いていたこともあり、D-Lab Japanでは、適正技術の実用化・ビジネス化の促進を目指す、D-Lab Dissemination や Development Venturesといった授業の日本導入を担当しています。
これから、適正技術を取り巻く社会の環境(途上国の現状から途上国向けビジネス(Bottom of the Pyramid Business・BOPビジネスと呼んだ方がより正確ですね)の最新情報まで)を中心に、こちらで見聞きしたこと、考えていること、活動報告などができれば、と思っています。
さて、まず手始めに自己紹介をさせてください。
私は、中国・上海に生まれ、6歳まで中国で育ちました。その頃の上海はまだまだ発展途上で、我が家はエアコンはおろか、お風呂も洗濯機もなく、テレビは白黒、キッチンのガスもマッチでつけていました。
(お風呂はどうしていたかというと、週に数回、大きなお盆にお湯をためて即席のお風呂を作って入っていました。当時、うさぎを飼っていたのですが、ある日、父がすっかり汚れてしまったうさぎをお風呂に入れようと決めて、お風呂に入れた次の日に、うさぎが寒さで死んでしまったのをよく覚えています。全くひどいことをしたものだといまだにウサギがかわいそうでなりません。)
日本へは、船で1泊2日かけて、神戸港から入国したのですが、その時の衝撃はいまだに忘れられません。ボタンを押すとジュースが出てくる自動販売機、勝手に空いたり閉まったりする自動ドア(きっと人を選別して開け閉めしているに違いないと思い込んだ私は、なんとかドアを突破しようと全速力で走ったのを覚えています。あわてて係員に止められましたが。)、恐々乗ったエスカレーター、そごうにあった大きな仕掛け時計、いやはや日本というのはすごい国だと、子供ながらに思ったものです。
それから12年間、日本で小中高と通った私は、身も心もすっかり日本人になり、中国語は後から習い始めた英語よりもすっかり下手になって、中国のことは忘れて、サイエンスの世界にのめりこむようになりました。高校の頃は恋愛もせず、化学室に毎日通って実験をしたり、研究所の体験プログラムに参加したり、なんともオタクな生活を送っていたものです。
大学に入ったら一刻も早く研究をしたい、と高校の先生に相談をしたところ、「あなたは楽観的な人だから、大学からアメリカに行って研究をしてもいいんじゃない?」と言われ、実際楽観的だった私は留学を決意。大学は、D-Lab発祥の地である、マサチューセッツ工科大学に入学しました。
大学時代は、人間界のことにはさして興味もなく(苦笑)、分子生物学の研究ばかりをしていましたが、大学4年のとき、いくつかのきっかけが重なり、私は本当に一生研究を続けたいんだろうか、と思うようになりました。その時の決断は、理論的に、というよりは、感覚的になされたものでしたが、ともかく一旦、研究の世界を離れて、広く世の中を見渡せるような仕事に数年間ついてみよう、と決意。
某コンサルティング会社に就職をしました。
コンサルティングの仕事は、期待していたのよりもはるかに面白く、意義深い仕事でした。仕事を始めて、しみじみと、
・人とかかわる仕事がいかに面白いか
・いろいろな人の中でも、自分がいかに理系オタクな人たちを愛しているか
ということを発見しました。
そして、私は「理系の人たちの才能が、ベストな形で世の中に生かされるよう、科学技術と社会をつなぐ仕事を自分の生業にしよう」という一つ目の決意をしました。
もう一つの転機は入社3年目の夏に訪れました。大学4年の頃から、このD-Labのメンバーの何人かと共同で始めたSTeLAという団体を通じ、科学技術人材のリーダーシップ育成のお手伝いをしていましたが、そこで毎年議論する世界が面している科学技術の課題と、私がコンサルティングの仕事で手伝うメーカーの課題との間に、あまりにもギャップがあるのではないか、とぼんやり考えていたところ、会社の同僚から、「きれいな飲み水の届かない地域に、浄水機を導入しようとしている会社があるんだけど、そこのビジネスモデル作りを手伝ってみない?」と誘われました。
この機会を逃したら、一生、貧困問題にかかわることもないだろう、と思った私は、会社を休職。
国連開発計画のGrowing Sustainable Businessというユニットに属し、浄水機メーカーの村落地域向け浄水機ビジネス戦略を考えるプロジェクトに従事しました。
このプロジェクトで訪れたインドネシアの村での光景は、またも衝撃的でした。村々の各家庭で、なんともシンプルな日本製の製品が、本当に大切にされていたのです。狭い家の中に、本当に大事そうに飾られていたSomyのテレビ(たぶん偽者だとは気づいていないのでしょう)。満面の笑みで乗り回して見せてくれたYamahaのオートバイ。うちのSanyoのポンプはすごいんだから、と、10分かけて家まで連れていって見せてくれた古い電動式ポンプ。十数年ぶりに、神戸港で感じた衝撃を思い出しました。
考えてみれば当たり前のことですが、科学技術が人々の生活にもたらしうるインパクトが途上国では、はるかに、はるかに大きいことに気づいたとき、私は二つ目の決意をしました。
「同じテクノロジーを届けるなら、すでに満たされた生活を送っている人にではなく、初めてテクノロジーに触れる人に届けよう」と。
とても長くなりましたが、これが私がD-Labプロジェクトにかかわろうと思ったおおざっぱな理由です。
D-Lab日本導入に関する期待・思いについてはまた順次、ブログにアップできれば、と思います。
これからどうぞよろしくお願いします!
Sunday, February 7, 2010
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